参院本会議の答弁席。マイクの前に立った高市早苗首相が、明確な声でこう言い切った。
「その週刊誌の記事を信じるか秘書を信じるかというと、私は秘書を信じます」
2026年5月、永田町を揺らしているのは、首相陣営が対立候補や野党を狙った「中傷動画」を組織的に拡散していたのではないか、というスクープだ。週刊文春が証拠メッセージを次々と公開し、首相は連日否定する。この記事は、複雑に絡まる事実関係を時系列で解きほぐし、何が確定情報で、何がまだ証言段階なのかを切り分けて整理する。

何が起きたのか——文春スクープの中身
発端は週刊文春2026年5月7日発売号(4月30日発売GW特大号)が報じた一連のスクープだ。報道の骨格は三つに整理できる。
第一に、昨年10月の自民党総裁選期間中、TikTok上の「真実の政治」を名乗る匿名アカウントから、ライバルだった小泉進次郎氏と林芳正氏を中傷するショート動画が連投された。「カンペで炎上!無能で炎上!ボロが出まくって大炎上!!」「政界の119さん あなたがぴーぽーぴーぽーなんですけどぉーーw」――顔写真にド派手なテロップを重ね、運動会風BGMで煽り立てる。投稿の責任者は明示されていなかった。
第二に、この匿名動画群を作成・流布したのが高市早苗陣営だったと文春は名指しした。同誌は陣営内のメッセージのやりとりを示す写真を入手したと報じている。陣営を牽引していたのは、高市氏の最側近・公設第一秘書の木下剛志氏(高市早苗事務所長)。総裁選途中からはAIに詳しい起業家・松井健氏に依頼し、AIで1日100〜200本の動画を量産、YouTubeやInstagramなど複数SNSに投稿したという松井氏の証言を載せている。
第三に、この「動画作戦」は総裁選で終わらなかった。2026年2月の衆院選でも、野党候補へのネガキャン動画が続々と作成されたと文春は報じる。木下秘書から陣営スタッフへの依頼メッセージとして、奈良1区の馬淵氏や立憲・安住淳氏を標的にした文面が誌面に掲載されている。例えば安住氏については「公開する事を前提に撮えているのに足を組んでの食事、とても日本人の道徳心とは思えません」(原文ママ)といった指示が記録されている。
選挙結果は、自民党が公示前比118議席増の316議席で圧勝、中道改革連合は167議席から49議席へ激減。安住氏・馬淵氏は落選した。NHKやTBSなど主要メディアは「高市旋風」の背景にSNSと動画戦略があったと分析していたが、その動画戦略の一端が組織的ネガキャンだった可能性が浮上した形だ。
首相は何と答えたか——三度の国会答弁
国会では立憲民主党の議員が三度にわたって追及した。首相の答弁は一貫している。
5月8日 参院本会議(立憲・小島智子議員への答弁) 「他の候補に関するネガティブな情報を発信する、あるいはそのような動画を作成して発信するといったことは一切行っていないという報告を受けております」
5月11日 参院決算委員会 全面否定を維持。「私は秘書を信じます」という発言はこの流れの中で出た。
5月13日 参院本会議 「私自身の関与は一切ない」と改めて表明。一方で「(陣営内のやりとりを)確認できなかったとの報告を受けている」とも述べ、やりとり自体は調査済みではないという含みを残した。
論点を整理するとシンプルだ。文春は「メッセージ記録あり、陣営関与あり」、首相は「事務所職員に確認した、行っていないと報告を受けた」――証拠提示と内部報告の言い分が真っ向から食い違っている。しかも首相は記者団からの追及に対し、文春が名指しした木下公設第一秘書に直接確認したかどうかは明確に答えていない。SNSでは「あえて木下氏には聞いていないのでは」という疑念が広がっている。
ディープフェイクとの混同に注意——別案件の整理
ここで重要な交通整理をしておきたい。「高市 中傷動画」というキーワードでは、実は性質の異なる三つの問題が混在している。
今回の本筋、陣営による組織的ネガキャン動画疑惑。これは選挙の正当性に関わる政治倫理の問題だ。
高市首相を装ったディープフェイク詐欺動画。2025年10月以降、AIで合成した高市氏の偽動画が「投資を促す」内容で出回り、自民党が公式に注意喚起した。警察も詐欺サイトへの誘導として捜査対象としている。
海外発のフェイク動画。2026年3月、トランプ大統領の「真珠湾発言」をめぐり、高市首相が「米国に二度と足を踏み入れない」と発言したかのようなディープフェイク動画が拡散し、India Todayなどがファクトチェックで「偽情報」と判定した。さらにSCMP(南華早報)は、約3,000のフェイクアカウントが「裏切り者・高市」というスローガンで日本の選挙に介入を試みた疑いも報じている。
つまり、「高市が中傷動画を作った疑い」(本件)と、「高市が中傷動画の被害者になっている件」(ディープフェイク詐欺・海外発フェイク)は、まったく別の話だ。SNSで議論が混線しがちなので、ここは区別したい。
なぜ重大なのか——民主主義の問題として読む
文春が報じた内容が事実なら、これは単なるスキャンダルではない。匿名アカウントの背後に陣営が存在し、AIで動画を量産して世論誘導を試みたという構図は、選挙の公正性そのものを揺るがす。ダイヤモンド・オンラインが「民主主義は崩壊するかもしれません」と踏み込んだタイトルで論評したのも、この危機感ゆえだ。
一方で、首相側の言い分にも筋はある。週刊誌報道を全面採用して有罪認定するのは慎重であるべきだし、内部調査で「やっていない」と確認したならその報告を首相が信じる行為自体は不自然ではない。問題は誰に、どこまで聞いたかだ。最側近の木下秘書本人に確認せずに「事務所職員に確認した」と答弁することの意味は、追及側からすれば真相隔離に映る。
支持率の急落も無視できない。3月のピーク74.2%(JNN)から5月第2週には57.6%へ。約2か月で14〜16ポイントの下落幅は、この中傷動画疑惑が顕在化した時期と重なる。世論調査で「消極的支持」が増加したと朝日が指摘した背景にも、この疑惑の影が落ちている可能性がある。
残された焦点——次の3週間で見るべきポイント
第一に、文春の追加報道だ。同誌は「SNS班の責任者は現大臣補佐官だった」「松井氏との詳細なメッセージ記録あり」と続報を予告している。新証拠がどこまで出るかで、首相の防衛ラインがどこまで保つかが決まる。
第二に、自民党内の動き。総裁選で標的にされた小泉進次郎防衛相と林芳正総務相は、現在は閣内で高市政権を支える立場だ。表向きは波風を立てない姿勢でも、党内力学が変化する可能性は十分ある。
第三に、選挙関連法の議論。AIによる動画量産が選挙運動に組み込まれた場合の規制をどうするか――この論点は今後の国会審議で必ず浮上する。韓国は既に選挙ディープフェイクを禁止する法整備を進めており、日本の立法対応の遅れが指摘される文脈にもつながる。
まとめ——「秘書を信じる」で終わらせないために
首相は「秘書を信じる」と言った。それは個人の信念としては理解できる。だが首相という公人の答弁としては、信じるか信じないかの問題ではなく、調査して事実を確定させる責任がある。文春が示したメッセージ記録の真贋を、第三者の調査で検証する手続きが取られない限り、この疑惑は世論の中で発酵し続けるだろう。
選挙の勝敗は、もはや街頭演説の力ではなく、AIが量産するショート動画の数で決まる時代に入りつつある。その入口で起きた「高市陣営・中傷動画」疑惑は、政治倫理と技術規制の交差点に立つ象徴的な事件として、当面この国の政治を揺らし続けることになる。
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